今日は少し、最近感じた価値観のズレについて書いておこうと思います。
連休で動画を暇つぶしに見ていて、一部のFIRE発信者の語りを見ていると、その中で「妻にFIREを反対された」「どう説得すればいいか分からない」「直前になってようやく打ち明けた」といったケースが少なくないことに驚きました。
正直に言ってしまうと、理解できないというより、距離がかなりあると感じました。 資産額が足りないとか、投資手法としてリスクが高い、そういう話ではありません。 「なぜ、人生を左右するほどの重大な決断を、配偶者ともっと前から共有していないのか?」 「なぜ、そこまで話が進む前に、話せていないのか?」
あくまでHodoの主観ですが、そこに配偶者とのコミュニケーション不足や、責任の置きどころに対する感覚の違いを感じました。
責任の捉え方が根本的に違う
もちろん、無責任ということはないでしょう。資料を作ってプレゼンして説得しようとしたり、理解を得ようと努力されているようには見えます。 ただ、Hodo自身の感覚とは決定的なズレがあるようには思いました。
Hodoにとって結婚とは、人生の共同体を作ることでした。 家族の全責任を背負うのが前提であり、家族の将来を経済的に保証することが最優先事項です。だからこそ、FIREというライフスタイルの変更は、自分一人の願望で決められることではありません。
しかし、最近の風潮や動画での語られ方を見ていると、自分が目にした範囲では、結婚観は少し違ってきてるようです。 結婚は「共同体」というより、「個人同士が、同じ生活空間を共有する関係」に近い感覚なのかもしれません。お互いの役割は流動的で、何よりも「個人の幸福」や「自己実現」が優先される。 配偶者は「運命共同体の仲間」というより、 価値観や利害をすり合わせ続ける「パートナー(契約相手)」に近い存在で、 ときに優先順位が交錯する関係でもある。
そう考えると、FIREの決断を直前まで打ち明けられない理由もわからなくもないです。 少なくとも、Hodoの感覚から見ると、FIREを家族全体の意思決定ではなく、個人の生き方の選択と捉えているように見えました。
また、FIRE後に自己実現を目指す、という考え方もよく見かけたのですが、ここもギャップを感じたポイントです。 Hodoの実感では、自己実現は「組織という足場」があってこそ成立しやすく、個人になってから何かを成す難易度は、想像以上に高い。 これは、会社が持っている信用・資本・人脈を、個人が一から再構築するのは、別次元のゲームと言えます。
なぜここまで価値観が変わったのか
なぜ、ここまで感覚が乖離してしまったのか。 少し考えてみましたが、これは個人の資質の問題ではなく、社会構造の変化、もっと言えば「世代間の環境差」が大きいのだと考えます。
Hodoを含む就職氷河期世代は、バブル崩壊後の負債を背負わされ、「自己責任論」が直撃した世代です。 パワハラや長時間労働は当たり前、セーフティネットもあてにならない。「覚悟を決めて責任を背負わないと、生き残れない社会」でした。
しかし、その反動として社会は修正されました。少なくとも、自分が若い頃よりは、労働時間は減り、ハラスメントは表に出やすくなり、飲み会の強制参加はなくなり、有休もとるのが当たり前になり、若い社員個人の考えを尊重するように変わってきました。 制度の上では、「覚悟を決めなくても生きていける」方向へ、社会は少しずつ修正されてきたのかもしれません。
これは社会の成熟であり、良いことだと思います。 ただ、その代償として「責任を背負わなくていい代わりに、報酬も増えない」というバランスに落ち着いているようにも見えます。 少なくとも、自分が若い頃に思い描いていた責任と報酬を追い求める感覚は、今はあまり強くは感じません。
この価値観の変化を、政策や少子化対策はどこまで前提にできているのか。 Hodoも今回初めて気付かされたくらいなので、上の世代が中心である政治家も、おそらく把握しきれてない・理解できてないように思われます。少なくとも、この前提が十分に共有されているようには見えず、結婚や家族が共同体ではなく契約になった社会で、 同じ処方箋が通用するとは思えません
とはいえ、世代差だけで説明できる気もしません。 自分はなぜそこまで「全部背負う前提」で生きているのか。 本当に社会のせいだけだったのか、それとも、自分の性格がそうさせただけなのか。 正直なところ、今はまだ良くわかってはいません。
FIRE観の変化も連動している
こう考えると、FIREに対する考え方の違いも腑に落ちます。
Hodoが想定していたFIREは、家族全員の生活を自分が死んだ後も保証するための安全マージンを確保することでした。そのために必要な資産や社会保障制度を確認し、家族の幸福を最優先にして判断してきたつもりです。
また、HodoにとってのFIREは、単に「働かなくなること」ではなく、自分自身が最後のセーフティネットになること、客観的に見れば専業投資家になることです。投資の利益で生活するわけですからね。投資家としてのある程度のスキル・自信が身につかない限りは、家族を守れないと思います。
最近は、ある程度の資産や投資経験の段階で、一度走り出してみるという選択も珍しくないようです。 優先されるのは「家族の安定」よりも「個人の自己実現」や「個としての自由」にあります。 社会的な責任が軽くなっている分、より個人の自由にフォーカスした柔軟なFIREが主流になるのは必然なのかもしれません。
知らなかったことは幸運だった
この結婚観の変化に、正直今の今まで気づいていませんでした。 自分はずっと「責任を負わなければ生きられない世界」に住んでいると錯覚し、必死に働いて資産を積み上げてきたのかなと思います。
もし、もっと早く「そこまで背負わなくても生きていける社会」になったと認識していればどうだったか。 もっと早い段階で仕事をセーブしていたり、資産目標を下げていたことでしょう。反面、今のような安心感は得られず、どこか不安が続くような生活になってた気もします。自分の中で「家族の不安を完全に消す」という基準を置かなければ、今の水準まで資産を積み上げることはなかったでしょう。
結果として、社会の変化に疎かったおかげで、安全マージンを確保することができました。 氷河期世代として厳しい時代を生きてきたことは事実ですが、その厳しさを前提にしているからこそ、今があります。
社会が変わったこと、結婚やFIREの意味が変わったこと。 それを気にせず全力で走ってきた不器用さを、今はラッキーだったと思っています。拍子抜けという気持ちの方が大きいかもしれません。ただ、古い前提で走り続けた結果が、たまたま自分には有利に働いてくれました。
これからは、もう過度な責任を背負う必要はないのかもしれません。 自分なりの「責任を背負わなくていい生き方」を、模索しようと思います。
自分に厳しくするのは自由ですが、もちろん、他人にそれを強いるつもりはないです。それだけ決めておけば、ちょっとくらいズレていても、もう十分だと思っています。

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