SNSでこんな発信をみかけました。
「時間はあるのに、やろうと思っていたゲームや読書になかなか手が伸びない」 「世間が熱狂しているスポーツ観戦の面白さが、自分にはいまひとつ分からない」
もちろん、これは一部の人の話であり、FIRE後に趣味を満喫している人もたくさんいます。 ただ、一定数の人が「自由になったのに何をしていいか分からない」「思ったほど楽しめない」と感じているのも事実のようです。
もしかすると、FIREのための資産形成や仕事を優先するあまり、「純粋に楽しむ」「何かに夢中になる」という経験が普段の生活から遠ざかっており、純粋に楽しむための筋肉が錆びついているのかもしれません。
自由な時間を楽しむことは、当たり前にできるようでいて、案外そうでもないのではないか。 最近はそんなことを考えるようになりました。
「10時間も遊んでしまった」と感じる人、「まだ10時間」と感じる人
FIRE後にゲームを長時間プレイしたことで、罪悪感や虚無感を覚えたという話を見かけることがありました。
仕事中心の生活を長く続けてきた人ほど、「生産性の無い時間」に居心地の悪さを感じるのは自然なことだと思います。 この感覚を否定するつもりはありませんが、いつもゲームをやっている自分からすると、正直「?」でした。
以前MMORPGをやっていたころ、LV199から当時カンストだった200にレベルを1つ上げるために、毎日経験値が倍になる決められた時間にログインし、2時間以上は狩りをして、1ヶ月近く費やしてやっとレベルアップできた。 そんなこともありました。
10時間なんてものはあっという間で、遊んでいるときまで罪悪感を感じるというのも解らなくはないですが、Hodoはそのような繊細さは持ち合わせていないです。 これまでゲームのために無駄に費やした時間は途方もないです(笑)
そのような体験を振り返ると、「何かを心から楽しむ」「何かに長時間没頭する」ということ自体にも、ある種の慣れや素養があるように感じます。 少なくとも、それはお金や時間が手に入ったからといって、すぐに身につくものではなさそうです。
心理学にも「フロー体験」という似た概念があり、この没頭状態は経験によって入りやすくなるとされています。 「没頭できるかどうか」もまた、一種の能力や習慣の問題ということです。
「すぐ飽きた」のは、大人になったからなのか
ある新聞の投書欄で、「子どもの頃にゲームを買い与えられず、大人になって初任給でゲーム機を買ったものの、すぐ飽きてしまった」というエピソードを読みました。
もちろん、その人がもともとゲームに向いていなかった可能性もありますし、本当に大人になって興味を失っただけなのかもしれません。
ただ、別の見方もできます。 子どもの頃に、何かに夢中になる経験や、役に立つかどうかを考えずに没頭する経験を十分に積めなかった場合、大人になって自由やお金を手にしても、その楽しみ方がすぐには分からない、ということはあり得るのではないでしょうか。
もしそうであるなら、「自由になれば楽しめる」ということ自体も、何の経験や蓄積もなしに自然とできるわけではないのかもしれません。「楽しむには訓練が必要」というのも、暇と退屈の倫理学で解説されていたのを思い出します。
FIRE後に必要になる第4の資本「余暇資本」
橘玲著『幸福の資本論』では、幸福の基盤として、
- 金融資本(お金)
- 人的資本(仕事の能力や稼ぐ力)
- 社会資本(人とのつながり)
の3つが挙げられています。
Hodoはこれを非常に優れたフレームワークだと思っています。
ただ、この本が主に想定しているのは、これから仕事を通じて自己実現を目指し、資産形成を進めていく現役世代だと思います。 仕事を離れた後の長い人生、とりわけフルFIREのようなやや特殊な生き方までは、必ずしも射程に入っていないように感じます。
フルFIRE後の世界では、少なくとも生活に占める比重という意味では、人的資本や社会資本の重要性は相対的に低下します。
もちろんゼロになるわけではありません。 しかし、毎日の大半を占めるのは仕事でも職場の人間関係でもなく、「自由時間」になります。
すると、金融資本によって手に入れた膨大な自由時間を、どう幸福へ変換するかが人生の中心的な課題になります。
実はこの課題について、以前考えたことがありました。
FIREでは社会資本・人的資本は大幅に目減りします。ただし、FIREのために積み上げた金融資本と、FIREで得られる自由時間で、低ストレスに社会資本と人的資本を効率良く再構築できる、強くてNew Gameだという考え方です。
ただ、自分で考えておきながら、これには少し違和感がありました。 FIREとは、自ら人的資本への依存を減らし、仕事を中心とした社会資本からも一定の距離を置く生き方です。 それなのに、FIRE後の幸福のために、再度社会資本や人的資本を積み上げなおすというのは、現役時代の延長のようにも思えるからです。
「好きなことで稼ぎましょう」「新しいコミュニティを作りましょう」と、再び人的資本や社会資本を積み上げていくことを望む人もいるでしょう。 ただ、自分は明らかにそちらのタイプではなさそうです。 もし幸福の源泉が、結局のところ仕事や社会参加にしかないのであれば、何のためにFIREしたのかが分からなくなってしまいます。
そこで必要になるのが、Hodoが仮に「余暇資本」と呼んでいるものです。 余暇資本とは、「自由時間を幸福に変える力」と言い換えてもよいかもしれません。
例えば、
- 何時間でも夢中になれる趣味がある
- 一人でも充実した時間を過ごせる
- 新しいことへの好奇心を持ち続けられる
- 意味や成果を求めず、没頭そのものを楽しめる
こうした能力や経験の蓄積です。
広い意味では、これらも知識やスキルの一種であり、人的資本に含めることはできるかもしれません。 それでも、あえて人的資本と分けて考える意味があるように思います。 なぜなら、両者を動かしているエンジンが大きく異なるからです。
人的資本は、基本的には外発的動機によって磨かれます。 収入を得るため、評価されるため、責任を果たすため、社会の中で役割を担うために積み上げていく資本です。
一方、余暇資本は内発的動機によって育まれます。 誰かに強制されたからではなく、役に立つからでもない。 成果や収入を求めるわけでもない。 それでも、ただ好きだから続けてしまう。 気づけば長い時間を費やしている。 そうした活動の積み重ねによって形成される資本です。
長くサラリーマン生活を送ってきた人ほど、この二つを意識的に区別して考えた方が、FIRE後の人生設計はしやすいのではないでしょうか。
また、人的資本は、少なくともFIRE文脈では「何かの役に立つこと」を目的とした資本であり、余暇資本は「それ自体が楽しいこと」を目的とした資本だと言えるかもしれません。 この二つを混同すると、リタイア後も「この趣味は将来の利益につながるか」「何かの役に立つか」という人的資本の檻から抜け出せず、真の意味で自由を享受しにくくなります。
余暇資本という軸があると、FIREという生き方を、幸福モデルの観点からも納得できるようになります。 社会資本・人的資本が大きく目減りしても、金融資本と余暇資本があれば幸福になれるからです。
金融資本が自由時間を買い、余暇資本がその自由時間を幸福へ変える。
FIREを目指す過程では、どうしても前者ばかりに意識が向きがちです。 しかし、その先にある長い自由時間を豊かなものにするためには、後者もまた同じくらい時間をかけて育っている必要があるのかもしれません。
FIRE後の世界では、この余暇資本こそが、人生を支える第4のインフラになるのではないか。 最近はそんなことを考えています。
じゃあ、余暇資本はどう積み上げるのか?
余暇資本は「積み上げよう」として積み上がるものではないと思っています。 好きだから続けている、何となく気づけば時間を使っている。 その結果として、あとから振り返ると形成されているものです。 (というか、ややこしい話で、目的をもってやったら、それこそ人的資本になっています。。まあそこまで厳密なものでもないですけどw)
先ほど「没頭は経験で入りやすくなる」と書きましたが、それは「鍛えようとして鍛える」という意味ではありません。 目的を持たずに使った時間だけが、結果として蓄積になる。 そうやって積み重ねてきた「自分は楽しく生きてきた」という感覚、こうすれば楽しめるという感覚は、持っているだけで幸福感を高めてくれると考えます。
ですから、何か特別な準備をする必要はありません。 今ある趣味でも、新しく始めた遊びでも、自分が自然と没頭できるものを、ただ自然体で続けていけばいい。 その時間が結果として、少しずつ余暇資本になっていくのだと思います。
では、冒頭の「ゲームに手が伸びない」ような状態になってしまったら、もう手遅れなのか。そんなことは全然無いと思います。
自分にも錆の経験は多少あります。 歴史シミュレーションゲームに久々に手を出した時、どんな感じで遊んでいたか思い出すのに最初は少し苦労しました。 ただ、1時間もすれば戻ってきます。 操作や勘所を忘れるくらいの錆は、浅いほうです。
本当に怖い錆は別のところにあります。 「始めるのがおっくうになって、スタートすらできない」という状態です。
自分でも、アニメを見始めるのがしんどいと感じる時はあります。 それでも結局見てしまうのは、「始まったら楽しめる」という感覚をまだ覚えているからです。 この記憶が残っているうちは、おっくうでも始められます。
もっとも、毎回意志の力で再生ボタンを押しているわけでもありません。 風呂に入っている間に1本見るのが習慣になっています。見終わったら風呂から出る、タイマー代わりの枠です。 タイマーなので、ぶっちゃけ一番つまらない(というか激甘すぎて平常心では耐えられないような)作品をここに回しています。そして見始めさえすれば楽しいです。 1クール(3ヶ月)に30本くらい見ていると、溜めたらどんどん見なくなるのは予想がつきます。だから溜めない。 始めるかどうかを、その日の気分に任せない仕組みになっているわけです。
※意図的に設計したら人的資本になるんじゃないかと疑問が生じるかもしれませんが、意図的に積めないのは資本の中身のほうで、それを動かす仕組みは設計してかまわない、という考えです。
逆に言えば、「手が伸びない」というのは、この「始まったら楽しめる」という記憶が薄れてしまった状態なのかもしれません。
だとすれば、やることは単純です。 とにかく一度始めて、「楽しかった」という記憶を新しくする。 最初の一回は重いはずですが、記憶さえ戻れば、二回目からは軽くなっていきます。 余暇資本は放っておけば錆びますが、FIRE後からでも再蓄積はできるはずです。
金融資本は、自由時間を買うことはできます。 しかし、その自由時間を幸福へ変えられるかどうかまでは保証してくれません。
FIRE後の幸福を支えるものは、FIREのために準備した何かではなく、何の役にも立たないのに、つい続けてしまうこと。その中でいつの間にか育っていくものだと思います。




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