「FIRE後にやりたいことリストを作ろう」という話はよく見かけます。
これについては以前から何度か書いてますが、Hodoはやりたいことリストはずっと苦手でした。
なぜ「やりたいことリスト」が嫌なのか
理由はいくつかあります。
まず、リスト化した瞬間に「やらなきゃいけないこと」に変わり義務感が生じてしまうことです。 本来は自由時間を楽しむためのものなのに、いつの間にか消化すべきタスクになってしまいます。とにかく捌かなきゃとなり、途端に面倒くさくなります。
さらに、投資を長くやっているせいか、期待値計算が自動で始まります。「やりたいことなんだから楽しいはず」と期待値が上がり、実際にやったときの体験との差分が気になります。期待が最初から高いので「思ったほどでもなかった」という不満が生じそうな気がしてしまうのです。そして始めることさえ億劫になります。
それに何より、「やりたいことリスト」という響き自体が、どこか意識高い感じがします。こちとら怠惰な人間です。人生の目標を100個書き出しましょう、と言われても、正直しんどいです。
FIRE後の「時間余り」問題
ところが最近、FIRE後の生活の時間配分を試算していて、一つの問題に気づきました。結構、時間が余りそうなのです。 やりたいことは、たぶんもう十分あります。ただ、それだけで毎日の自由時間をすべて埋めたいかというと、全くそうでもないのです。
Hodoの場合、趣味に関してはすでにかなり飽和しています。今の趣味時間を2倍、3倍に増やしたいかというと、案外そうでもありません。これ以上、無理やり時間を増やしたら、かえって没頭の純度が下がる気がします。好きなものだからこそ、適度な濃度があります。
そうすると、かなり自由時間が余ります。
ここで思い出したのが、以前読んだ『暇と退屈の倫理学』という本でした。FIRE後というのは、結局のところ、根源的な退屈と真っ向から向き合う状態なのだと思います。
Hodoは以前、「暇問題は未来の自分が解決する」と書きました。それは今でも基本的にはそう思っています。ただ、切実な問題として、かなり早い段階で直面する可能性がありそうです。
「暇つぶしリスト」という解決策
では、どうするのか。その場その場で考えればいい。何もしなくてもいい。そう思っていたのですが、あるとき妙にしっくりくる考え方を思いつきました。
やりたいことリストではなく、『暇つぶしリスト』を作ればいいのではないか。
暇つぶしリストには、目的も意味も成果も求めません。やりたい必要すらありません。楽しくなくても構わない。失敗してもいい。途中で飽きてもいい。何も得られなくてもいい。ただ、時間が過ぎればそれで十分。そういうリストです。
早速考えてみましたが、こんな感じのリストです。
- 散歩
- スーパー探検
- 昼寝
- お菓子作り
- 瞑想
- 掃除
- 温泉
- 人間観察
- 楽器
- カラオケ
- ジム通い
- 喫茶店通い
- 暇つぶしネタを考える
- 何もしない
いや、こうして見ると、「そのうちやりそうなこと」をあらかじめ書き出しただけです。「何もしない」も暇つぶしリストの重要な一項目です。何もしないという選択肢を忘れないため、そして何もしないことを自分自身に許可するためでもあります。
さらに、「どうやって暇をつぶそうか考える」こと自体も立派な暇つぶしです。これ以上リストを充実させると、暇つぶしリストを作るという暇つぶしが終わってしまいます。それはそれでもったいない気がしてきました。
何だか少しおかしいですが、Hodoにはこちらの方がずっとあっています。
何か話をあわせる必要性が生じたときには、その場の空気感にあわせて、この暇つぶしリストをやりたいことリストとして提示しても良いわけですw
自由時間との向き合い方
「やりたいことリスト」は、未来の自分に期待を背負わせます。一方で、「暇つぶしリスト」は、未来の自分に何も要求しません。
やってもいいし、やらなくてもいい。面白ければ続ければいいし、つまらなければやめればいい。FIRE後に必要なのは、人生を充実させるための壮大な目標ではなく、こうした適当さなのかもしれません。
自由とは、何か大きなことを成し遂げるための時間ではありません。ときには、「今日はどうやって暇をつぶそうかな」と考えられること自体が、贅沢な遊びなのだと思います。
やりたいことリストを作るのがずっと嫌だったのですが、やっとHodoにぴったりのリストがみつかって、本当にスッキリしました!




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